楽をすると手を抜くの違い
化石世代のおじさん方と働くと「手を抜くな!」あるいは「楽をするな!」という叱りを受けた経験はないでしょうか。
かくいう私もその経験があるのですが、いかんせん 奴らの言っていることは一貫しておりません。というか自分が気に入らなくていちゃもん付けているだけのように感じる のは私だけでしょうか。
そもそも “楽をする” と “手を抜く” は違うものです。また、前者に関しては 「楽を出来るならどんどんすべき」 という持論を持っています。
というわけで今回は「“楽をする” と “手を抜く” の違い」と「なぜ楽をするのは良いのか」についての持論を綴ります。
目次
怠け者の分岐点
結論から言うと以下のような違いがあります。。
- 楽をする → 効率よく行動することが目的
- 手を抜く → 手間を省くことが目的
これはメンターであるKマネージャーからの影響もありますが、私個人が思う両者の本質的違いは上記にあると考えています。この2つを 「怠け者の分岐点」 と独自に呼んでいます。
化石野郎達は上記を「怠け者」のひと括りにして石器時代から思考停止してしまっていることが問題なのです。
「楽をしたい」という感情を持つ怠け者は「仕事は完遂したいけど時間をかけたくない」という動機から生まれ、大抵は以下のループを繰り返します。
- 「楽をするための努力(方法)」 を考え出す
- 「時間が掛かる原因」 を探る
- 「原因を取り除く最適な行動」 を実施する
- 3で解決しないなら再び2に戻る
このようにして書き出せば 「楽をする=改善点を見つけて最適化する」 と言い換えられるのではないでしょうか。
対して手を抜く怠け者の動機は
- 「省いてもバレなさそうな手間」 を考え出す
- 「精度が低くても大丈夫そうな部分」 を探る
- 「いい加減な仕事」 を実施する
というループを繰り返します。手を抜くを定義するならは 「必要な手間を省き、品質を下げる行為」 です。
したがって、私が思う2つの大きな違いは 「品質を下げるか否か」 であり、またの名を 「怠け者の分岐点」 と考えているに至った理由です。
車輪の再発名
プログラミングの世界には 「車輪の再発明」 という有名な格言があります。
車輪の再発明(しゃりんのさいはつめい、英: reinventing the wheel)とは、「広く受け入れられ確立されている技術や解決法を(知らずに、または意図的に無視して)再び一から作ること」を指すための慣用句。
一般的には、古くからタダで皆に使われている技術や技法があるのなら、それをそっくりそのまま模倣して使えば、ほとんど時間もかからず労力もほとんど使わずに済む。それなのに、わざわざまた自分でゼロからアイディアを練る段階から始めていては、時間・労力・コストなどの無駄なので、「車輪の再発明」は基本的には、時間の無駄、愚かなこと、ばかばかしいこと、というニュアンスで用いられている。
特にIT業界、なかでもSEやプログラマの間で好んで用いられている表現、概念である。1
プログラムを模倣することや、そのまま流用する行為は手を抜いていると言えるでしょうか。
これは楽をするに含まれます。決して手を抜いているわけじゃありません。わざわざ同じものを作る必要が無いからです。最初からあるならそっちを使った方が早いからです(ここで揚げ足取りは著作権について騒ぐだろう)。
尚且つ、外部から流用したものによってエラーやバグが起きないなら何も問題ありませんよね。むしろ、それを作らなくて済んだ分、別の作業に入れ込むことが出来るのですから。
プログラの世界では、どのようなことが手を抜くことに該当するか。やはりエラー処理を適当にしたりバグを放置しておくことが手を抜く行為だと思います。何らかの理由があれば仕方がないけれど(もちろん可能な限り解決するのが望ましい)。
なぜなら想定出来るエラーを、使う側からしたらバグを残しておくことは品質を下げている行為だからです。
必ずしも手を動かすことが大事では無い
この記事のアイキャッチ画像を「楽をするバンザイ」とした理由は 「楽をする=効率化する」 ということに等しいからです。
効率化するということは作業の負担が小さいのです。凄く良いことじゃないですか。普通の人ならバンザイしたくなりますよね。
ところが数年前に 「履歴書をPCで作成するのは手抜き」 という話題がありました。
上記サイトを参考にPCで作成した履歴書は手抜きである理由と手書きのメリットを抜粋してみると
- 文体で差別化できない
- 無機質で冷たい印象を与える可能性がある
- 誠実な印象を与えられる
- 字が上手ければ好印象
などなど……。 「いや、お前ら字じゃなくて内容を評価しろよ」 という突っ込みを入れたいものばかりです。
こんなの生きた化石達が “効率化=手抜き” とイチャモンを付けているだけです。自分のことを相手に伝える、もしくは相手の中身を知りたいのが目的ならば、手書きだろうがPCだろうが半紙と墨汁で作ろうが関係ないでしょう。
手作業は手段でしか無いはずなのに目的となっています。本来の目的は中身の品質を見極めることであり、手を動かして作ったのかという制作過程で人や物を判断するのは誤ってます。
任天堂の元代表取締役社長「岩田 聡」さんが存命だった頃の名言集 「岩田聡はこんなことを話していた。」 という書籍に以下のような内容があります。
プログラムの世界では、よく、「全体のなかの1%の部分が、全体の処理時間の七割から八割を消費している」などといわれるぐらい、そこばかり何回も処理しているということがあり得ます。ですから、そのボトルネックになっているところを直さないかぎりは、そうじゃないところをいくら直しても意味がないんですね。
ところが、人は、とにかく手を動かしていたほうが安心するので、ボトルネックの部分を見つける前に、目の前のことに取り組んで汗をかいてしまいがちです。そうではなくて、いちばん問題になっていることはなにかとか、自分しかできないことはなにかということが、ちゃんとわかってから行動していくべきです。
手を動かして満足、あるいは手を動かしていれば安心しているような無能化石世代は、毎朝これを1000回復唱することを義務化すべきです。